「松山市誌 全」 大正3年愛媛県松山市編集・発行の書籍の263貢に、西楽寺の記述がある。その箇所を記載しますが、古い記述なので読みにくいかもしれない点は何卒ご容赦ください。
《松山市湊町にあり寺傳によれば其開基宗賢法師族姓は毛利氏輝元の二男にして兄と不和の故を以て長門を去て松山に来たり城下を徘徊し杉谷の一隅に杉谷山浄誓寺とて破壊無人の寺あるを見是れ我が住むべき所なりとて遂に居住す後輝元の使来て帰國を勧めしかれども聴かず出家して真宗に帰依し名を宗賢と改むと云う。
寛文二年(1662年)三世
正清の時火を失す正清火勢の熾んなるを見ながら仏具法物一切顧みず災若し城山に及ばば直に屠腹して過を謝せむと剣を按して座す人来て本尊及び祖師の絵像と寺號の幅とを出し他皆焼失したれども幸に火は城に及ばずして止みたり是によりて山下の居住を憚り今の地を乞いて寺を再建すと云ふ。》